「雑」の力とポテンシャル、「ゴジカラ村」
場所は愛知県長久手町。雑木林を縫うように建てられた施設を訪ねてみた。ケアハウス、幼稚園、託児所などの複合施設。全体に貫かれているのは、「時間に追われないでいよう」という願いだ。
ファッションとしてのスロ―ライフからは大きく一線を画した生活のあり方。さまざまな尺度が混在し、どこにでも人の居場所がある施設。「無駄」もまたポジティブにとらえようとする人々が運営する施設。その名を、「ゴジカラ村」と言う。
「雑」という字にポジティブな意味が与えられることは少ない。雑然、雑念、雑音、雑種、雑巾・・・・。そこでの「雑」は、まとまりがない、つまらない、くだらない、ささいである、価値が低い等々、疑いもなくネガティブな意味でしかない。
では雑踏、雑貨、雑煮、の「雑」はどうかといえば、ポジティブに解釈することも可能であろう。多様なものが、単一な価値観によって排除されることもなく、同じ場所に寄せ集まる。 その猥雑が活気を、その錯雑が包容を、その複雑が別次元の価値を生み出していく。そのように考えれば、「雑」は必ずしもネガティブではない。
雑木林の「雑」はどうか。
どちらとも言える。
木材としての流通価値が低い樹木が雑然と生えている林か、それとも日々の生活に役立つという意味では利用価値が高い樹木が渾然と生えている林か。見方の違い、考え方の違いによって、価値判断は正反対となる。
名古屋市に隣接する長久手町の一角に、雑木林が残っている。
冬なので枝先に葉はなく、見通しはずいぶんとよいはずだが、それでも遠目から見えるのは樹木ばかりである。分け入って未舗装のスロープを上ると、初めて一群の高齢者のための建造物が見えてくる。手前がデイサービスセンターで木造の二階建て、奥が五十戸のケアハウスで鉄筋コンクリート造四階建て、合わせて延べ床面積3,000㎡。かなりの規模の建物だが、そうは見えない。山奥のこじんまりとした温泉宿の風情。というのも、建物全体が雑木林に埋め込まれるように建てられているからだ。

埋め込み方は徹底している。敷地は傾斜地というより、10mもの高低差があって崖地と言うに近い。コナラは秩序もなしに密生している。上空では枝葉が八方に広がっている。この状態で、敷地内の100本のコナラの木のうち22本は伐採されたが、残りの78本は残された。設計と工事にどれほどの困難を伴う物だったか、専門家でなくてもおおよその想像はつく。
設計上、平面的な位置と形状を定めるのも容易ではないし、立体的な形状となればさらに困難である。現地の林に分け入っては木の位置や状態を確認して案をつくり、再び林に入って確認しては案を作り直すという作業を続けること一年、ようやく最終案に至ったというのもうなずける。
工事となればさらに困難。造成はできないし、基礎を作るにも根の生え方を見極めないといけない。図面上では把握できない事態が頻出するが、施主である社会福祉法人愛知たいようの杜(通称ゴジカラ村)の理事長、吉田一平氏は「枝を切るくらいなら庇を切れ」と厳命。主は樹木であり、建物は従であるという基本方針が徹底されている。
でき上がった建物は、コナラの木を縫うように建っている。比喩ではない。木をよけて建物の外周はガタガタと変形を起こし、長い直線はどこにも見当たらない。1本の枝のために、そこかしこで庇、手すり、渡り廊下の一部などがかき取られている。床下から頭をあらわした筍のために床板をはいで伸ばしてやり、竹となって屋根を突き破ってもそのままに泰然と暮らしていたという良寛さんの逸話が思い出される
なぜここまでこだわるのか。ここでは雑木林の「雑」はネガティブな意味を全く持たず、その反対に、「雑」にこそすべての価値の重みが与えられているからである。
経済が優先し、利益第一主義の社会では何ごとにも効率が重んじられ、無駄は悪とされる。成員の役割が明瞭に分割され、定義されている。計画性が大切で、その計画は予定道理に消化されるべきものとされる。理屈に合うことだけが純粋に追及され、正解にのみ価値が認められる。
吉田理事長はこれを「時間に追われる国」の尺度とし、一方でゴジカラ村を「時間に追われない国」と定義して、その運営の理念を次のように言う
無駄があるところに楽しみがある。
いつもごちゃごちゃとしていて、役割が定められていないから、
誰にも居場所がある。
計画が予定通りに進まないことは普通のことである。
未解決、未完成の状態はむしろ歓迎される。
正解はない、あるとしても1つではない。
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示されてみれば、高齢者が日々暮らす社会では、このように考えたほうが無理がなく、現実的であり、かつ楽しいに違いない。「雑」が優れた尺度であることは明白である。なのに私たち「時間に追われる国」の住人は、つい自分たちの尺度を「時間に追われない国」の住人にも適用してしまい、挙句にはその非効率を、目的や計画の不明瞭を指摘してしまったりするのである。
ゴジカラ村にはこのほかにも、幼稚園、介護福祉看護保健専門学校、託児所、特別養護老人ホーム、ショートステイ、デイサービスセンター、在宅介護支援センター、古民家、温泉、料理屋などがある(ほかに町内にはグループホーム、デイサービス、横丁などが点在している)高齢者の介護を軸としている複合施設には違いないが、施設にしても運営にしても、旧来の枠組みには縛られていない。
幼稚園は、丸太作りで高床式。隠れる場所、見通しのきかない場所だらけである。グランドは平坦でない。雨が降っていなければ一日中外にいてもいい。ほったらかしが基本である。
特別養護老人ホーム。ヤギ、ニワトリ、犬、うさぎなどの動物が放し飼いにされ、高齢者といわば同居している。ミニ豚も飼われているが、予想外に大きくなり、その突進を高齢者がかわせないのでという危険性から、今は柵の中に入れられている。
ケアハウスはもちろん、幼稚園、学校にまで露天風呂があり、村内の食堂はアルコール可、外部利用者可。
ほんのわずかな時間の滞在だった。それでも、自らの体内の「時間に追われる国」の尺度が急速に相対化され、ファッションとして吹き込まれている「スロー」がたちまち色あせてくることがじわじわと実感されるのだった。
文 伊藤 公文氏
(AXIS June 2004 vol.109掲載)
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